スノーボードの國母選手の服装問題について、いろいろな議論がなされている。
ブログなどを巡回していると、衆議院議員の河野太郎氏のこちらの意見の評価が高いようだ。
要約すれば、國母選手の行為への批判は個人の価値観に由来しているのでは、というのが河野氏の主張だ。
一読してみると、なるほどと思わせる説得力。
・・・・でも、なにか違和感を感じた。
世の中のルールと言うのは、明文化されたものだけではない。
国の伝統や風習も社会のルールだ。
社会を円滑にするために、明文化されていなくても守るべき規範というものが社会には存在する。
公式のセレモニーで服装が乱れている人がいれば、周囲の人は眉をひそめるだろう。人ごみの中でタバコを吸っている人がいれば、周囲の人はやはり眉をひそめるだろう。
でも、これらは明文化されたルールではない。
いわゆる社会規範であったりマナーと呼ばれる不文律だ。
國母選手はその種の社会的規範意識に欠ける行為をしたからこそ、批判されている。
河野氏の、「國母選手はルールには違反していない。彼の行為をどう評価するかは個人の価値観の問題である。」という意見には、それなりの説得力もあるけれども、保守の政治家の発言としてはどうしても物足りないものを感じてしまう。
氏のロジックが成立するのであれば、守るべき社会規範に対して、それは価値観の違いだという言い訳を許してしまう。きちんと明文化されたルール以外は守らなくていいという考えにもつながる。
それでは不文律が存在し得なくなってしまい、なんとも暮らしにくい社会になってしまうのではないだろうか。
そのことにより、日本という国が護ってきた素晴らしい国柄が失われるのではないかということを危惧する。
僕は、河野氏が本当に保守であるならば、もう少し伝統や社会規範、さらには日本人の持つ美意識というものを大切にして欲しいと思う。